月日は百代の過客にして


中3の国語で「奥の細道」を教えてみて、丸谷才一の「桜もさよならも日本語」を思い出した。

36ページを紹介してみよう。

 東京書籍『新しい国語』中三、『漂泊の思ひ』をはじめとして、今の教科書の『奥の細道』はたいてい、

月日は百代(はくたい)の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

とはじまるテクストを使ふ。岩波『日本古典文学体系』本に従つているゐるのである。しかしわたしには、ハクタイはどうも納得がゆかない。
 この書き出しは李白の『春夜、桃李園ニ宴スルノ序』の「夫レ天地ハ万物ノ逆旅、光陰ハ百代ノ過客ナリ」によるものだが、ハクタイと訓むのは、おそらく芭蕉が読んだと推定される『古文真宝後集』和刻本のこの箇所に「百(ハク)代」と仮名が振つてあるからだ。「百」がハクと漢音でゆく以上、「代」も漢音でタイと、元禄の俳諧師が訓んだにちがひないといふ考証は、学問的には貴重なものだらう。だが、現代の普通の読者が『奥の細道』を読むには、ヒヤクダイで一向かまはないではないか。
 もし作者が発音した通り読まなければならぬとすれば、江戸初期のハ行音はha、hi、fu、he、hoではなく、fa、fi、fu、fe、foだつたのだから、ファクタイであつた度合ひはかなり高い。さらに『新しい国語』中三の前のほうに控へていゐる『万葉集』の和歌のときには、「あかねさす紫野行き標野行き」その他を、上代の厄介な音で読まなかければならなくなる。
 それはペダンチックな言ひがかりだと切り返されるかもしれないが、しかしわたしとしては、ハクタイを強ひるのがそもそも学問の些末なところに溺れた態度だと言ひたいのである。戦後の現代文教育が変に文学づいてゐるのと対をなすやうにして、古文教育はうるさく学問づいてゐるのではないかとわたしは憂へる。つまりここに振り仮名は要らない。ヒャクダイでかまはない。同様に数行あと、「江上(かうしやう)の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて」の「江上」も振り仮名は要らない。岩波『古典文学大系』本は専門家用にしておけばいいので、中学生はもつとのんびりしたテクストで、しかもたくさん古典を読むことが必要だらい。
(初版1986年1月25日、2刷1986年2月10日/新潮社版による)

丸谷才一の「日本語のために」は高校時代に読んだが、この「桜もさよならも日本語」はその続編という感じのものであった。

実際のところ、中学や高校のテストでは、「月日は百代の過客にして」の部分の線が引いてあって、「読みを書け」みたいなことも多いので、参考にはなる。
ちなみに角川文庫版も、「ハクタイ」「コウシヤウ」と仮名が振ってあります。

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