塾長の紹介

塾長 金坂嘉一

学生時代には、研究者を目指していました。
母子家庭でしたので、学費は授業料免除や奨学金、そしてアルバイトで賄いました。学部生時代は主に、塾講や家庭教師で、院生時代は時間的な関係で、進研ゼミの「赤ペン」先生をしていました。
しかし、研究者はなかなか門がせまく、博士の学位をとってから、ポスドク研究員としてどこかの枠が空くのを待つ必要があります。もちろん、才能も。
どちらも見切りをつけて、教員になろうと茂原に帰ってきました。教員試験を受験するまでの一年間のつもりで、内房の塾に勤めました。生徒数は4教室で500名ほど。いろいろ問題のある塾ではありましたけど、生徒の成績が上がるのです。例えば順位が60番→30番になることを「倍増」というのですが、そういう生徒が結構いました。
それで、塾に大きな可能性を見出して、1988年(昭和63年)に「好学舎」をつくりました。ネーミングは、「〇〇塾」「〇〇学院」「〇〇ゼミナール」というのは嫌だったので、苦労しましたが。
というのは、「学院」は英語だと「Institute」というのですが、これには「研究所」という意味があります。院生時代にいたところは「Hokkaido University, Institute of Immunological Science 」というところだったので、さすがに、「それはないなぁ」と。「ゼミナール(英語読みだとセミナー)」は「研究会」という意味で使われるので、「これもおおげさだなぁ」と思ったからです。

最初、「できない子集まれ」というチラシをまいたので、本当にできない子がきました。今、中3の生徒のお父さんも元塾生なのですが、彼が平均点をかるく超えるようになったとき「もう自分で勉強できるでしょ。塾をやめたら?」と訊いたくらいです。

その後、生徒のがんばりと保護者の方々の応援で、生徒数も増えて学力も上がって、どちらかというとできる子が多くなってきました。それで、千葉東、長生、幕張総合などの上位高校への合格者も増えました。

ところが、茂原駅前で高校生主体の塾(予備校)をやっていた先生が急死してしましました。ちょうど長男が高3で入試を数か月後に控えていました。そこで、青葉予備校も兼任することになりましたが、「もし成果がでなかったら生徒や保護者に申し訳ないから一年で撤退しよう」と覚悟をきめてとりかかりました。
幸いなことに、東工大、筑波大、千葉大、県立保健医療大はじめとする国公立大、早稲田大、慶応大、上智大などの私立TOP大学へ合格者を出せました。
その代わりずいぶんムリはしました。夏期講習はもちろん、12月から1月は毎日10時間授業。大晦日も正月も…という。

社員講師がガンで亡くなったり、家庭の事情もあって退職者もあったりして、2教室の面倒は見られないかったため、ちょうどコロナ騒ぎが起こったころ、中の島にもどり駅前は閉鎖しました。

今は、一人で生徒をすべてみています。いいのは、全教科にわたって指導できるので、特に中3は必ずといっていいほど成績が上がります。一年間で、偏差値5~10上がります。最近は、LINEを使って英語の音声指導を行ったり、課題を自作するなどして家庭学習をしっかりやるようにも気を配っています。

家族は、妻と三人の男の子と、愛犬♂です。
酒もたばこもやります。好物は「カツオ」なのですが、歳のせいか、もうあまり量は食べられなくなってきました。
仕事を終えて家に帰って、一杯安い焼酎のウーロン割を飲みながら、妻の愚痴を聞いたりするのが楽しみです。

生徒は、自分の子どもように考えて、真剣に、一生懸命に指導しています。よりよい将来を切り開く学力をつけること、社会にも目を向けて広い視野を培うこと、挨拶など生活習慣を身に着けることを目標に指導に当たっています。

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